成人式の日にいなくなった父親との今

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父親との記憶

父親が自分たちが住む家に一緒にいたのは、記憶にあるかぎり、小学生になる前のこと。父親と母親がけんかしていて、兄弟3人で玄関の外にいたことをうっすら覚えているのが父親が家にいたときの記憶。

この記憶のせいか、自分が結婚したときに、相手と喧嘩が耐えなくなりそうな事態に陥り、子どもたちにこの姿見せるのは嫌だなと思ったのも離婚したことの理由のひとつだったような。

そして、小学生になった頃には、自宅にはいなかった父親。その後父親に会いに行くようになるのは、高校3年のとき。大学行くからお金を出してほしいという相談のときだったかな。地元の国立に行けばいいと言われたような記憶があるのだけど、どうしても東京に行きたかった。

東京の大学に合格し、大学の学費を出してくれることとなり、一歩ずつ進んで行ける気がして、それは大変感謝しました。

成人式の日にバイト先に電話が

大学生活を過ごしていた、二十数年前、自分の成人式当日。特に帰省もせず、大学近くにあるホテルにあったレストランでいつも通りバイトしてると、バイト先に母親から電話が。母親も特に連絡をよこしてくる人ではなかったし、バイト先に電話するくらいなので、何か嫌なことがあったのかと不安にかられ電話にでると、父親が失踪したとの知らせが。元々、家にはいなかったので、失踪はつまり会社からもいなくなったということ。

ついにいなくなったか、予想はつくことではあったが、成人式当日に電話かけてきてくれたので自分へのお祝いではなかったんかーい!と少し思いつつ、「大学の学費払えなくなる、やばいな」との現実的な問題に直面。

当時から決断だけは早かった私が取った行動は、奨学金をもらうために何をしたらいいかと考え、ちょうど大学2年から3年になるタイミングだったので、転部をしました。奨学金をもらう条件が、成績優秀?みたいな条件があり、自分がいた学部より上の学部に転部することで、学力もあり学習意欲を見せるといいのではと考えたからです。

結果、文学部から法学部へ転部。授業料が免除になる奨学金をもらうことができました。転部をしてなくても、父親が失踪ということが大きかったとは思いますが。

大学入学当初から、育英会の奨学金は借りバイトも週5くらいではやっていたのですが、授業料が免除になっても、施設費などの数十万はやはり支払わなければならず、当時は毎月30日くらい働いていました。奨学金はもちろん返済してます。

父親と再会

その後、いなくなった父親と再会したのは、自分の結婚式当日でした。兄が父親を探し出していて、結婚式に呼んでくれました。結婚相手とその両親に「このじゃじゃ馬をよろしく頼む!」みたいに、これまで育ててもらった記憶はあんまないよなと思いつつ、じゃじゃ馬呼ばわりされたこともあながち間違いではないと納得して聞いていました。

結婚式以降は、また特に頻繁に連絡も取り合っていなかった父親からの連絡は、2011年3月11日の日。メールで、「大丈夫か?」と届き、それ以降は、メールだけ数年に1度やりとりするような感じでした。

最後にあったのは、4年ほど前。母親が倒れたということで帰省したときに、ついでに会ったとき。一緒にお好み焼き食べながらビールを飲み、私に何か聞くでもなく大事な人がなくなっただの話を聞かされた。まぁ、私の話を聞いたりもしづらいんだろうなと。

そういえば、父親からのメールには「さすらいの風来坊」とタイトルにあったが、ほんとにその通りで、今も笑える。

最近の父親とのこと

数年前、お金を貸してもらえないかと連絡があったことがあった。4年前にあったときは、何かあってもお前には頼らないから心配するなと言われていたので、よっぽどなのかと思いつつ、父親に貸せるお金なんてないよと心で思っていたので、余裕がないと断った。ひどい娘なのだろうか。

そんな父親が、最近いよいよ調子悪いとの知らせが父親に近い人からの連絡でわかった。私の人生において、父親と過ごした記憶としての時間は、おそらく合計1年分もなかったのではないか。

そんな時間でも、やはり親というのは、自分のまわりにふわっと現れてきて強い力でこちらをおさえてくる存在だなと、今、とても重苦しくのしかかっている。

今から、私はどうしていくのだろうか。と、朝、仕事をはじめるまえに、なぐり書きをしてみて自分と向き合うことにした。

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